鹿島長次
人間は生命維持に欠くことのできない炭水化物や蛋白質や脂肪を栄養として外部から摂取していますから、これらの炭水化物や蛋白質や脂肪に関連する物質に対して、本能的に極めて鋭敏に知覚します。身体の水分が不足すると渇きを感じて本能的に水を飲むように行動します。身体から塩分が不足すると塩っぱいものが美味しくなりますし、長時間の運動や重労働で身体の各部の活力が不足するときには、ブドウ糖を必要としますから、甘いものが食べたくなります。肉や魚に含まれるアミノ酸は旨味成分として味覚を刺激し、蛋白質が食べたくなるように食欲を促します。このように身体の活力となる炭水化物や構成素材となる蛋白質や脂肪の不足を補うように味覚が刺激して本能的に食欲を促します。同じように嗅覚も種々の匂いを嗅ぎ分け、身体にとって必要で有益な匂いを匂い(smell)あるいは香り(fragranceあるいはaroma)と呼んで好み、危険や害毒を予知するような匂いを臭み(odour)と呼んで嫌います。
種子や果実や芋は熟しますと炭水化物を多く含むようになりますが、同時に種々のアルコール類やアルデヒド類や脂肪酸のエステル類もわずかながら含むようになります。そのため、これらのアルコール類やアルデヒド類や脂肪酸のエステル類の匂いは大量の炭水化物の存在を示しますから、人間は良い匂いあるいは香りとして好みます。炭水化物や蛋白質で構成される食物が腐敗するときに腐敗菌はしばしば有毒な物質を代謝しますから、自己防衛本能により人間は腐敗したものを摂取しないようにします。炭水化物は腐敗すると酢酸や乳酸やブタン酸などの脂肪酸の生産しますし、蛋白質やアミノ酸は腐敗により窒素原子を含むアミン類や硫黄原子を含むチオール類や硫化物を生成します。これらの腐敗生成物はほとんど毒性を示すことはありませんが、食物の腐敗を間接的に示しますから人間はこれらの分解生成物を忌み嫌います。脂肪酸とアミン類はそれぞれ酸味と苦味を持っていますから、味覚の未発達な子供たちは本能的にあまり強い酸味と苦味を好みませんし、これらの腐敗生成物の持つ特有の匂いは臭みと感じます。例えば、ウンチ臭いブタン酸は炭水化物やアミノ酸が分解して生成する脂肪酸ですし、アミノ酸から生成するアミン類やチオール類は生臭い匂さや多くの人が最も強い臭みを持っています。
生物は成長や代謝をしながら生命維持の活動をしていますが、同時に、優秀な子孫を多く残し、種を保存するために生殖の能力を持っています。生物はフェロモンと呼ばれる物質を分泌して生殖活動を促しますが、人間もこのような生殖の本能を持っていますから、優秀な性質を持つ人を逞しい、賢い、あるいは美しい人と感じ、フェロモンを良い香りとして好みます。若い女性がお化粧をし、香水をつけ、綺麗に着飾るのもこの本能によるものと思われます。
炭水化物や蛋白質は加熱調理することにより消化し易いブドウ糖やアミノ酸に一部分解しますが、この加熱調理によりアミノ酸はメイラード反応が部分的に進行して、ピラジン類などの複素環芳香族化合物と呼ばれる物質を生成します。代表的な複素環芳香族化合物のピリジンとピラジンは著者が長い年月にわたり取り扱ってきた2000種類以上の化学薬品の中で最も不愉快な吐き気を催す匂いを持ち、永遠に馴染むことのできない臭い物質です。しかし、種々のピラジン類が少量ずつ混合した場合にはごま油やコーヒーの独特の香ばしい香りに感じられるようです。
鼻は呼吸をする時に空気とともに種々の気体物質を鼻孔から吸い込むとき、鼻の中にある嗅覚は通り過ぎる空気に含まれる物質と接触して匂いの情報を集めています。この嗅覚により得られる空気中にわずかに含まれる気体の分子の情報を脳内の嗅覚中枢で整理して、その発生源となる物質の所在や性質を推測します。瞼を閉じてじっと動かずに眠っているときには視覚の情報も触覚の情報も得られませんし、食べ物を食べないときには味覚の情報も得られません。しかし睡眠中でも呼吸をしていますので、嗅覚は空気中に含まれる物質と接触して情報を送り続けますから、不意に起こる状況の変化の情報を的確に捉える傾向があります。五感はすべて連動していますから、一度不意の状況の変化を捉えた後には、精度や感度の高い視覚や聴覚や味覚が主に情報を集める働きをします。これに対して、この不意の変化を報せる物質に対する匂いを本能的に消し去り、嗅覚は全く匂いのない状態に戻って、次に起こるかもしれない不意の状況の変化に備えます。このように空気中にわずかに含まれる気体の分子が通り過ぎるときに、鼻の中にある嗅覚に接触して匂いの情報を得ることに特化した触覚ですから、匂いの情報の強さは嗅覚に接触する分子の数に比例します。当然、空気中に含まれる種々の気体分子の割合が匂いの情報に影響を与えます。
空気は主に窒素と酸素で構成されていますが、二酸化炭素やアルゴンのほか、種々の物質から気化してきた多くの気体の分子が含まれています。物質の性質や分子量などにより差異がありますが、多くの物質はわずかずつ気化して気体の分子として周囲の空気中に拡散してゆきます。大気圧に対する飽和蒸気圧の割合は空気中に含まれる気体の状態の物質の上限量を示すものですから、空気中に含まれる気体の物質の割合が飽和蒸気圧の割合に達するまで液体や固体の状態の物質は気化を続け、液体や固体の状態の物質がすべて気化した時に空気中の気体物質の割合の上昇も止まります。当然、高い飽和蒸気圧を示す物質は揮発性が高く、気化しやすい性質を示しますが、この飽和蒸気圧は温度の上昇により飛躍的に高くなります。
このようにして測定される飽和蒸気圧を用いますと、「イタチの最後っ屁」に含まれるスカトールの空気中の濃度が0.001%(10ppm)以上には高くならないことが見積られます。言い換えれば、空気中10ppm含まれるだけで、嗅覚はスカトールの臭みをきわめて強く感じますし、1ppmよりも低い濃度のときに良い香りに感じられます。しかし、酸素分子や窒素分子のように空気中に大量に存在していても全く匂いを感じない物質もありますから、嗅覚の感度は種々の物質によりそれぞれ大きく異なり、香りか臭みかの匂いの好みも物質の種類ばかりでなく濃度にも影響されることがわかります。現在、最も感度の高い質量分析計は空気中に含まれる気体成分の成分比やそのそれぞれの化学的性質を測定する測定機器で、平均して人間の嗅覚の1000〜10000倍程度の感度を持っていると考えられています。それらの分析機器は感度は高くわずかな気体成分でも認識できますが、嗅覚がかなり主観的な性質を持っていますから、その匂いが良い香りか、忌み嫌うような臭みかを判断できません。嗅覚に代わる道具や機器はいまだに作られていませんから、残念ながら化学の知識や技術は匂いを調べるうえで全く無力です。匂いが重要な要素となる食品や化粧品などの産業では、匂いの良し悪しは調香師と呼ばれる特技を持った人によって最終的に判断されています。
本書では人間の生活の中で深く関わっている匂いに関して化学の知識を織り交ぜながら独善的に見てきました。匂いの感覚は嗅覚に衝突する気体物質の性質によるものですから、化学の知識や技術が深く関係していますが、匂いが高い嗜好性をもつ感覚のために、重要な要素となる食品や化粧品などの産業で十分な寄与をしていないように思われます。本書で匂いに関する基本的な性質を少しでも深く知ることにより、何か一つでも化学の研究や教育に役立つものが見つけ出せれば良いと思っております。また、逆に多くの化学的な技術や知識が芳しい香りに包まれた快適な日常生活を生み出す助けになれば、本書はさらなる意義を持つことになると思われます。本書が匂いに関する基礎知識を深める上で貢献できればよいと思っています。
私の独善的な発想を織り交ぜて考察した結果は
「身の回りの匂いを化学する」
としてpdfの形式でまとめましたので、以下に目次をあげておきます。気楽に読んで頂ければ嬉しく思います。さらに、この
「身の回りの匂いを化学する」
に対するご意見、ご質問、ご感想をchoji.kashima@nifty.ne.jpにてお待ちしております。
目次
- 1. まえがき
- · 食べ物は匂いを嗅いでから口に
- · 日常生活を豊かにする匂いの文化
- 2. 生活を支える五感の情報
- · 人間の思考や行動を支配する視覚情報
- · 聴覚と触覚と味覚の情報
- · 主観的で感度の変化し易い嗅覚情報
- 3. 匂いの特徴と分類
- · 日常生活を取り巻く気体の匂い
- · 食べ物の腐敗臭
- · 蛋白質の腐敗
- · 世界一臭い物質に認定されたエタンチオール
- · 花や果物の匂い
- · 脂肪酸の原料はブドウ糖
- · 植物の身を守る香草の香り
- · 名が体を表さない芳香族化合物
- · 香ばしい香りは最も不愉快な匂い物質
- · 宗教と結びついた香り
- · 猫が恍惚となるマタタビ
- · 妖しい香りの麝香
- 4. 温度で変わる空気中の気体物質の濃度
- · エネルギーの釣り合いで変わる恋愛模様
- · 分子量100の物質は約100℃で沸騰
- · 温度で変わる空気中の水蒸気量
- · 1PPMでも充分に匂うスカンクの屁
- · 僅か170個の分子に感じる雌の蚕蛾の魅力
- 5. 匂いを生かすも殺すも温度次第
- · 匂い物質の空気中の上限の濃度
- · 人々を錯覚させるガス臭い匂い
- · 冷たいアイスクリームやかき氷やビールの匂い
- · お茶の飲み頃
- · 料理の香りを決める香草
- · 燻らせると匂う護摩と香
- · エタノール溶液で保存される匂い成分
- 6. まとめ
- · 人間に有益な香りと有害な臭み
- · 匂いを捉え切れない化学の知識や技術
- · 索引
- 別表
(Excel形式でも別表.xlsxをご覧頂けます)