< ホーム - 本文 -

箪笥の中を化学する


鹿島長次





   人間とけだものとを分けるものは文化であり、中でも食べ物を食べやすくまた美味しくするための食べ物の文化と並んで、人間を寒さや雨風から護りしかも美しく見せる衣服の文化は最も根源的な文化と思われます。衣服を纏う最も基本となる目的は寒さや太陽の光や風や埃や雨露などの気象条件に適応できるようにし、危害を加えてくる外敵から護ることで、精神的にも肉体的にも弱点を隠して保護することと思います。運動能力を弱めては外敵との戦いに敗れてしまいますから、軽くて機動性に富み、しかも身体の弱点を護ることの出来る鎧や兜が発達してきました。生活の環境により衣服に求められる役割は大きく変化しますが、身体の動きを制限されるような衣服や長時間着ることの出来ないような着心地の悪い衣服ではあまり好まれません。
   麻や木綿や絹や羊毛はそれぞれの繊維の化学組成も形状も異なりますから、寒さに対する防温効果や耐久性など衣服の基本的な性質が異なります。絹は古くから高価で民衆には手の届かない衣服でしたから、絹織物を着ることが貴族や武士などの高い身分の人間や経済的に富裕な人間を象徴するようになりました。特に、茜草の根で絹を赤く染めた茜染めの絹織物は装飾性が高く、裕福な商家の娘の晴れ着になりました。このように、高い装飾性を持つ衣服が身分や階級や貧富を表すようになって来ました。そのためにある組織や社会や身分を主張するために、特定の装飾を施した衣服が用いられるようになりました。このように衣服が気象条件に適応できるように身体をかばう本来の役割のほかに、組織や階級や身分を明確に示し、社会に影響を与える役割も持つようになっています。
   生命維持のために生物が造った種々の物質の中から、衣服に適した動物の羽毛と絹と綿と麻などの繊維や茜や藍などの色素を見つけ出して人間は利用してきました。19世紀半まで植物生産調整されていたアリザリンは、無水フタル酸からの合成の成功により市場で一気に価格破壊されました。自然がもたらした貴重な産物を人間の知恵と技術で大量に安く合成した成功例です。また、アゾ染料の窒素=窒素2重結合を形成するジアゾカップリング反応の成功は染料合成の進歩に非常に貢献しました。これらの染料を用いた染色において、染め分けをするための種々の工夫がなされて、繊細な模様を作ることが出来るようになりました。さらに、1940年代になると有機化学の知識と技術が飛躍的に進歩し、Carothersを中心とする研究グループは絹の繊維のような66−ナイロンの繊維を製品化しました。このナイロンの繊維は絹や再生繊維より磨耗に対する強さなど種々の性質に優れています。
   種々の衣服を着ることによりその時のその人の気分や意思や思想を表現する役割も持っています。色鮮やかに染め上げた繊維や布がパリやミラノやニューヨークや東京の華やかなファッションの世界で持て囃されるようになりますと、繊維の材質や布の織り方だけでなく種々の色合いや模様を施すことも重要になってきます。これらの衣服の役割を充分に果たすためには、その材質の改良や染色技術の発展などが基本的な部分で大きく影響すると思われます。それらの繊維の長さや太さなどの形状、引っ張り強さや弾性率や破断歪みの大きさなどの力学的性質、保温性や柔軟性や肌触りなど種々の性質の違いにより衣服への適正が異なってきます。その結果、高価な衣服、思い出のある衣服、着心地の良い衣服、気に入った衣服など大切にしたい衣服が箪笥の中に蓄積してきました。これらの大切にしたい衣服を長く保存するためには、清潔に洗濯し、太陽の光をさえぎり、防湿や防カビや防虫などの対策を講じなければなりません。防湿対策としての乾燥剤や防虫対策には防虫剤など箪笥の中には多くの化学の知識や技術で満たされています。
   冬の乾燥した季節には衣服に貯まる静電気の放電により不愉快になりますし、保温性や難燃性などの繊維や衣服の性質はいまだ満足できるものではありません。さらに、化学的に作られた合成繊維は生物などによる風化が難しく、環境を破壊したり有毒な物質に変化する危険も残っています。これらの問題を解決するためには、将来にわたりさらなる化学の知識と技術の向上を必要としています。本書では我が家の箪笥の中を化学の知識を織り交ぜながら独善的に見てゆこうと思います。食べ物の文化と並んで、衣服の文化は人間とけだものとを分ける最も根源的な文化と思われますから、身近な事柄として興味を持って見たり聞いたり考えたりすることができます。箪笥の中を考えてゆくときに、何か一つでも化学の研究や教育に役立つものが見つけ出せれば良いと思っております。また、逆に多くの化学的な技術や知識が着心地の良い丈夫な衣服やモード界に革命をもたらすような衣服を生み出す助けになれば、本書はさらなる意義を持つことになると思われます。
   私の独善的な発想を織り交ぜて考察した結果は 「箪笥の中を化学する」 としてpdfの形式でまとめましたので、以下に目次をあげておきます。気楽に読んで頂ければ嬉しく思います。さらに、この 「箪笥の中を化学する」 に対するご意見、ご質問、ご感想をchoji.kashima@nifty.ne.jpにてお待ちしております。


    目次

1. まえがき
. 身体を外的な危機から護る衣服
· 着る人の個性を表す衣服
2. こんがらかるのは長いものの特徴
· 繊維は細い部分で切れる
· 短い繊維でも縒れば長い糸に
· 編み物は結びの極意
· 縦糸の間を縫うように横糸を並べた織物
3. 長い分子もこんがらかる
· 連続的な炭素鎖はジグザグになった長い構造
· 大きな分子は分子量も不明確
· 細長い分子が絡まって繊維に
4. 神の創った天然の繊維
· 天然の繊維は水に溶ける物質から
· 絹は蚕の身を護る大切な衣服
· 硫黄−硫黄結合で絡み合った羊毛の繊維
· ブドウ糖が繋がっている木綿と麻
5. 神の物真似をした合成繊維
· 絹の仮面を被った人絹(レイヨン)
· ナイロンは絹より勝る絹の代用品
· 素材と繋ぎ方で変化するプラスティックの性質
· ヂーグラーの雑な実験が大発明に
6. 衣服の用途に適した繊維を
· 天然繊維より形状も耐久性も勝る合成繊維
· 空気は軽くて最良の防寒具
· パンチパーマやマカロニの形に加工した合成繊維
· 着心地を良くする繊維の水分率
· 燃やして見分ける衣服の素材
7. 衣服の本質を変えた染色技術
· 物質は吸収する光の補色に見える
· 出藍の誉れは酸化反応で
· 西郷隆盛が好んだ泥染め絣
· 酸素と水と紫外線が色褪せの元凶
· 染め模様は染料と繊維の出会いの違いから
8. 衣服の手入れと保管に役立つ化学
· 洗濯の基本は界面活性剤を用いた水洗い
· 身近にある薬品でできる染み抜き
· 衣服を大敵から護る化学薬品
9. 化学が箪笥の中を変えてゆく
< ホーム - 本文 -