鹿島長次
蟻や小鳥たちでもある程度の情報を伝えられる社会的な繋がりの機構を持っているようで、哺乳類ではかなり進歩した情報伝達の機構を持っているように思われます。人類は種々の方法で生命の維持に必要な食べ物を得るための情報や生存競争の中で生き残るために敵や味方の情報を伝える伝達の機構を持っています。大声での咆哮から囁きまで、爆笑から微笑まで、号泣から涙を浮かべるまで種々の表現を使って喜怒哀楽を伝えます。飛んだり跳ねたり、胸を張ったり、背を丸めて縮こまったり、拳を突き上げたり、手を合わせて祈ったり、身体をくねらせて甘えたりして、顔だけでなく身体全体を使って情報を伝えます。瞼を閉じたり、目を糸や点や三角や丸に形を変えたりして目は多くの情報を伝えますが、人類は幸い非常に多くの音を微妙に発することができ、この音を組み合わせた言葉で口は眼よりもものを言います。現代の日本人は日常生活に必要な情報の交換と伝達のために最小限でも約60000語の日本語を使っていますが、この情報を持った音は時々刻々変化する空気の振動の変化で瞬時に消えてしまいますから、情報は伝達されたのちに相手の記憶としてしか残りません。人類の生活に必要な情報を親から子へ、子からと孫へ代々伝えてゆく過程で記憶の風化が起こり易く、言い伝えの内容は変化してしまいますが、誤った情報では生活してゆく上で必要な情報として全く役に立ちません。
Berzeliusは金や炭素などの古くから知られた元素は各国の事情に即した名前を用いましたが、元素の情報を混乱なく共有できるように19世紀以降に新たに明らかになった多くの元素にラテン語で性質を表した元素名とアルファベット1~2文字の元素記号を提案しました。欧州の言語や日本語のように表音文字を持つ多くの国々ではこの提案に沿って元素名を表音文字で記載できましたが、表意文字だけを使う中国では約100種類の元素に対して大まかな性質を示す気構えや石偏や金偏などの漢字を新たに作り元素名に対応しました。しかし、現在までに万物の基礎となる5000万種類以上の化合物の性質を集積してきましたので、これらの膨大な数の化合物を重複することなく整理するためには電子計算機などの助けを借りなければなりませんから、もはや表意文字では対応できず英数字と記号を基本に各国の表音文字が用いられました。
S.Morseは電流や無線電波や光を用いて(-)と(・)の長短2種の信号を組み合わせたモールス信号により遠距離の間に情報を送受信する方法を考案しました。同じように、電子計算機も電場の⊕と⊖あるいは磁場のNとSの2種の信号の組合せで種々の情報を伝達したり演算したり記憶したりしています。このように簡単な信号を組み合わせて情報を表す方法はまさしく限られた数の文字を用いて言葉を表す表音文字の方法と考えることのできます。
厳しい天変地異と弱肉強食の環境の中で生命活動を維持し種の保存をするためには生物は非常に短時間に周囲の情報を集めて整理し、適切な対応を判断して即座に行動しなければなりませんが、進化した生物の身体は細胞膜で隔絶されてかなり独立している膨大な数の細胞が集合して構成されていますから、細胞の間に相互に連携する情報網とエネルギー源などの物質輸送網を持っています。平常の状態にあるこれらの細胞は細胞膜の内側に比べて外側の電位が正に高い平衡状態にありますが、五感などの細胞は味や匂いや光や音などの刺激を受けますと、外側の電位が0.01秒以下の極めて短時間に負に逆転します。五感などの細胞の電位の変化により、さらに近傍の神経細胞が刺激されて電位の逆転を引き起こします。この細胞膜の電位の正と負の2種の変化の伝搬が次々に繰り返されて非常に短時間に最初の刺激の情報は多くの神経細胞を経由して伝達されてゆきます。モールス信号や電子計算機と同じように、神経細胞を通した情報の伝達における細胞膜の電位の正と負の変化も2種の表音文字による情報の伝達と考えることができます。
DNAは4種の核酸塩基の結合したデオキシリボースがリン酸エステルを介して長く鎖状に102~1012個ほど結合した物質で細胞の中に1個ずつ含まれ、細胞分裂の仕方やタンパク質の合成の仕方やブドウ糖を分解してエネルギーを産み出す反応の仕方など、生命活動の維持や種の保存などに必要な生体内のすべての反応を指令する情報が記憶されています。DNAの鎖上に配列したアデニンとグアニンとシトシンとチミンの4種の核酸塩基にリボースの結合したウラシルとシトシンとグアニンとアデニンの4種の核酸塩基がDNAに接近しますと、水素結合によりそれぞれ一義的に強く相互作用してDNAの情報を記録するように並びます。このように並んだリボースがリン酸エステル結合により重合して長い鎖状に結合したRNAは DNAの情報を正確に読み出してきますから、種々の酵素はこのRNAから情報を受け取って種々の化学反応を進行させます。DNAの鎖上に配列した4種の核酸塩基はDNAの情報を記録する表音文字の働きをしており、それらの核酸塩基とそれぞれ一義的に水素結合するウラシルとシトシンとグアニンとアデニンの4種の核酸塩基はDNAの情報を複写するための活字に相当し、RNAは活字を拾って作り上げた組版に相当します。この組版を使って活版印刷すればDNAの情報が誤字も脱字もなく確実に複写印刷されますから、生体内の種々の酵素に伝達して確実にその化学反応を進行させます。
情報の伝達や記録や交換に用いられる文字には絵文字と表意文字と表音文字がありそれぞれ長所と短所を持っていますが、本書では元素名や化合物名などの化学の領域で用いられる文字や、通信や計算機で用いられる文字や、五感で収集される情報や遺伝子情報に用いられている文字について考えてきました。情報が複雑になるにつれて表意文字の短所が現れ表音文字の長所が明らかになってきました。これらの考えが何か一つでも化学の研究や教育の上で参考になれば良いと思っております。現行の日本人は絵文字と表意文字と表音文字を巧みに織り交ぜて用いていますが、本書が幸せな人生を考える上で助けになり、多くの化学的な技術や知識の発展の助けにまでなれば、本書はさらなる意義を持つことになると思われます。本書が幸せな人生を考えるための基礎知識を深める上で貢献できればよいと思っています。
このように人間の体内の情報から化学の領域の情報まで、情報の伝達と記録の仕方を化学の知識や経験を基にして納得できるように、
「情報の伝達法を化学する」
としてpdfの形式でまとめましたので、以下に目次をあげておきます。気楽に読んで頂ければ嬉しく思います。さらに、この「情報の伝達法を化学する」
に対するご意見、ご質問、ご感想をchoji.kashima@nifty.ne.jpにてお待ちしております。
目次
- 1. まえがき
- · 現代人が使用する言葉は50万語
- · 日本語は約70の音の組合せ
- 2. 化合物名は50種の表音文字で
- · 漢字の特徴
- · かな文字の発明
- · 現代の自然科学の考え方は三行思想
- · 元素名と元素記号の由来
- · 日本語の元素名
- · 原子の結び付き方
- · 化学的情報の整理と集積
- 3. 電子計算機は2種の表音文字で
- · 金属は電気を通す
- · 半導体の性質を示すケイ素やゲルマニウム
- · 2進法で情報の演算と伝達をする電子計算機
- 4. 神経伝達は2種の表音文字で
- · 聴覚と触覚と味覚の情報
- · ロドプシンの回転異性化による視覚の情報
- · 主観的で感度の変化し易い嗅覚情報
- · 神経細胞による情報伝達
- 5. 遺伝情報は4種の表音文字で
- · ベンゼンは化学的に安定
- · 多くの共有結合には電荷の偏り
- · 強力な分子間相互作用をする水素結合
- · 特異な性質を示すプリン体
- · DNAの構造
- · DNAは誕生から臨終まで働く司令官
- · 役割に特化したDNA
- 6. 厖大な情報の整理と記録は表音文字で