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人間の寿命を化学する


鹿島長次


   身の回りに見られる多くの植物は発芽し、成長し、開花し、交配し、種子を残して寿命を閉じますが、その種子がまた新しい一生を展開して種の保存をしています。植物の寿命は種類により大きく異なり、1年にも満たない短期間で世代交代を続ける草から、4000年以上も生き続けてゆっくりと世代交代する植物まであります。同じように動物も種類によって種の保存の仕方が異なり、非常に短期間に世代交代する虫から100年以上も生き続ける大きな動物まで地球上に棲息しています。小さな体格の動物は繁殖力が高く平均寿命が短い傾向にあります。蟻や蜂はかなり高い社会的な組織を持って多くの個体からなる集団で生活しており、1匹の蜜蜂は大きさが1cmにも満たない小さな昆虫ですが、右図に示す蜜蜂の大集団は直径が50cmにもなり、その羽音だけでも恐怖を覚えるほどです。これに対して麒麟や象などの大型の動物は大人の体格にまで成長する時間が長く、多くの食べ物を食べなければなりませんから、繁殖力が小さく寿命の長い傾向を持っています。身を守る優れた知恵を十分に備えた成人に成長するためには15年以上の歳月が必要で、人間は小さな繁殖力しか持たず、寿命の長い素質を持った比較的大きな体格の生物と考えられます。
   細胞には生物の発祥以来の進化の過程や歴史や経験や生命活動に必要なすべての情報が記録されたDNAが必ず1組含まれており、それぞれ必要な性質や活動や変化に関する情報をRNAを介して取り出して細胞の生命活動を維持しています。進化した生物では非常に多くの細胞が集合して1つの生物個体を形成していますが、それらの細胞は全て同じ配列のDNAを持っていますから、全く同じ性質や機能を示すと考えられます。しかし、実際の生物の1つの個体を形成する多くの細胞は生命活動の維持に必要な役割に応じて、胃腸や肺や心臓や脳や神経や皮膚や筋肉など多くの器官に分業化が進んでいます。この各器官の役割の分業化に連れて、各器官の細胞はそれぞれのDNAを構成するシチジンのメチル化により必要に応じて改造されています。このDNA中のメチル化されたシチジンの割合と平均寿命の相関性から、野生の生活環境における種々の脊椎動物の平均寿命が推定されています。現代人はすでに高い文明を持っていますから本来の野生生活における平均寿命を求めることができませんが、この方法によれば野生の生活環境においては現代人の平均寿命が38歳と推定され、高い文明による豊かな生活環境が日本人の男女の平均寿命をそれぞれ81.41歳と87.45歳まで延長しているものと考えられます。
   身体を守るために衣服を纏い、風雪を遮るような家屋の中に住まい、ほぼ充分な食べ物を摂取する生活環境は野生の生活環境と比較して大いに異なっていますが、20世紀初頭までのこのような生活環境の違いによってわずか7歳ほどしか長寿になっていません。現代において治療可能と考えられている32種の疾患に関する治療の成否の情報を国別に集積したHAQ指数は世界各国の医療環境を評価できますから、このHAQ指数と対応する国の男女の平均寿命の間には相関係数が約0.79をもつ相関性が覗えます。さらに、医療水準が高くても治療できない交通事故や殺人事件やテロ事件や戦争などによる死亡者数を集計した平和度指数を加味することにより、HAQ指数に表れ難い殺伐とした状態を含めて実情に近い平均寿命の値を推定することができると思われ、世界163ヶ国のHAQ指数と平和度指数と平均寿命から、相関係数が約0.83を持つ関係式が求められます。この関係式から平和な状態のもとで現在の完備した医療水準では男女の平均寿命がそれぞれ84.9歳と92.1歳まで延長されると期待でき、将来、革新的な医薬品や医療機器や医療技術の新しい発明により平均寿命がさらに延長されることも期待されます。
   人間の眼は角膜と水晶体と硝子体で構成される光学系により対象物の光学像を網膜上に結び、光エネルギーにより網膜上で起こる変化を視神経が知覚し、視覚中枢で整理し認識する機構を持っています。眼のレンズの働きをする水晶体はクリスタリンと呼ばれるタンパク質の水溶液で高く安定した光の透過率を持っていますが、この高い透過率を維持するために、クリスタリンは多くのタンパク質と異なり新陳代謝が全くなされず同一の特殊なタンパク質が一生にわたって使用されています。このクリスタリンを構成するアミノ酸の異性化反応速度の精密な測定により、水晶体の透過率が最も高い幼少期から150年経過しますと、透過率の高いクリスタリンが約45%構造変化して55%まで減少しますから、その透過率は22%まで落ちて物を認識できないほどに重度の白内障になります。このことから眼の水晶体の耐用年限が130〜175年と見積もられます。
   人間の身体は非常に複雑な多くの器官が総合して働くように極めて精巧に良く組織されていますから、生命活動に必要な器官ばかりで不要の働きをする器官は無いと思われます。すべての器官が過不足なく機能している間だけ人間は生命活動を維持することができ、ある器官が機能を失えば他の器官が長い耐用年限を持って機能していても人間は生命活動を維持できません。当然、すべての個々の器官は同じ程度の耐用年限を本来持っていると思われますから、水晶体の耐用年限として見積もられた130〜175年は理想的な生活環境における人間の平均寿命の極限で、たとえすべての器官が新陳代謝を繰り返して正常に機能しても、130〜175年の寿命を超えて生命活動を維持することはできないと考えられます。
   本書では野生動物としての人間の持つ寿命、発達した文明を持つ人間の寿命、そして完璧な状態の人間が持つ寿命の限界を化学的な知識や手法を基に考えてきました。これらの考えが何か一つでも化学の研究や教育の上で参考になれば良いと思っております。また、人間の寿命の持つ現実が幸せな人生を考える上で助けになり、多くの化学的な技術や知識の発展の助けにまでなれば、本書はさらなる意義を持つことになると思われます。本書が幸せな人生を考えるための基礎知識を深める上で貢献できればよいと思っています。
   このように野生の生活環境の人間の寿命が文明、特に医療の進歩により何歳まで延長できるか化学の知識や経験を基にして納得できるように、 「人間の寿命を化学する」 としてpdfの形式でまとめましたので、以下に目次をあげておきます。気楽に読んで頂ければ嬉しく思います。さらに、この「人間の寿命を化学する」 に対するご意見、ご質問、ご感想をchoji.kashima@nifty.ne.jpにてお待ちしております。


    目次
1. まえがき
· 種を保存する方法
· 人間の種の保存
2. 野生生活における人間の寿命は38歳
· ベンゼンは化学的に安定
· 多くの共有結合には電荷の偏り
· 強力な分子間相互作用をする水素結合
· 特異な性質を示すプリン体
· DNAの構造
· DNAは誕生から臨終まで働く司令官
· 役割に特化したDNA
· DNAから推定される人間の寿命
3. 人間の寿命を延ばす医薬品
· ギネスブックが猛毒と認めたダイオキシン
· 葛根湯とエフェドリン
· アスピリンは人類が発明した最良の薬
· サルファー剤
· ペニシリン
· 抗癌剤
· 集積情報から推定される人間の寿命
4. 理想的な状態の人間の寿命は150歳
· 右と左
· タンパク質の構成単位は-アミノ酸
· アミノ酸のラセミ化
· タンパク質から推定される人間の寿命
5. 化学的に考えられる平均寿命

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